はだしの神様(800字版)
ピンポン、と呼び鈴が家中にひびいた。
「僕が出るよ」と、僕は2階から叫んだ。
階段まわりの壁紙は僕の手あかで真っ黒になっていた。もう、壁に手をつけなくてもいいから、これ以上汚れていくことはないだろうけど。
曲がりくねりながら14段を下りると、一直線に廊下がある。3歩ほど進んだ右手の台所から、母さんが「そんなにあわてて走らなくても……」と言ってくれた。僕の目が見えていなかった時は、たぶんいつでも、コンロの火を止めて、様子を見ていてくれたんだろう。
足元や天井が、だんだん明るくなってくる。−−僕はきびきびと靴を履きながら、すりガラスの向こうに見える人影に、「お待たせしました……」と声をかけた。「ええと、どちら様ですか?」と言おうとしたら、先にその人−−男の人から名前を言ってくれた。
「タナカです」
僕は、息を止めた。
タナカ、さん? あの、タナカ、選手?
鍵をすぐに開けた。がらがらと引き戸がスライドして−−人影は、タナカ選手の「声の主」になった−−手術が成功してから真っ先に写真で見た、その通りの顔で、そしてもっと写真よりもがっしりした、タナカ選手に!
「すぐに挨拶に来たかったんだけど……遅くなって、ごめんね」
タナカ選手は、小さな花束をくれた。−−ひとりで来てくれたみたいだった。あの時は、たくさんのテレビやカメラがいて、人だらけで気持ち悪かったけど。
「一緒にサッカーをしよう。」
僕はあの日、タナカ選手と、そう約束をして、ボールをもらった。僕はその言葉や声を、ずっと忘れなかった。それから、1年後。
僕はしっかりと、治った目で、タナカ選手を見た。じっと、じっと見た。やがて、タナカ選手の四角い顔のふちが、ぐらぐらゆがんできた。「ありがとう」まではなんとか言えたけど、僕はもう、泣くのをがまんすることができなかった。
ふっと熱い風が吹いた。
タナカ選手の手のひらが、僕のほっぺたにふれた。
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- 「ちょうど去年の今ごろ/玄関先で/○○を持った男が」をテーマにした800字小説です。ただし、今回は改行を含めると1600バイト超えるんですが。
- 同じタイトルでいろいろ考えていて、このテーマの800字に登場人物や設定を少し使いました。なのでタイトルに「800字版」とつけています。